写真でみる想い出の豊中~庄内駅編~
こんにちは。今回から定期企画として「写真でみる想い出の豊中」と銘打って豊中の歴史を写真とともに振り返っていきます。
豊中市は、広報用に撮影した写真を1940年代から保存しています。
そんな写真データを活用したい!と考え… せっかくならnoteでみなさんに見てもらおう!と今回の企画に至りました。
「昔」懐かしい風景と「今」を比較しながらご紹介していきます。まちやそこに暮らす人の歴史を感じ取っていただければ幸いです。
もしかすると、あなたの想い出の場所が登場するかもしれません。
第1回は庄内地域の阪急庄内駅をご紹介します。
阪急庄内駅と庄内地区
1951年に三国駅と服部駅(現在は服部天神駅)の間に開業した阪急庄内駅。宝塚線で最後に設けられた駅です。
開業時、庄内地区は豊中市との合併前の庄内町の時代で、駅の西側には田園が広がり、駅前に民家は一つもありませんでした。しかし、それ以降、公営住宅の建設や大阪音楽大学の移転などが続き、アパートや文化住宅も建設され人口が急増。1950年に約1万5,000人だった庄内町の人口は、豊中市と合併した1955年に約2万1,000人に、1964年3月末には約7万3,000人に達し、市内総人口の3分の1を占めていました。それに伴って、庄内駅の利用者数も他駅を上回る勢いで増加し、1964年には、豊中駅を抜いて当時市内で最大の利用者数を誇る駅となりました。
※以降、写真に写っている人のお顔には、ぼかし修正を加えています
庄内駅東出入口
(昔)
↓
(今)
昔の写真は、庄内駅の地下道が完成した1966年当時です。地下道に続く建物は一部改修されていますが、現在も変わらず利用されています。
また、昔の写真左側に見えるのは改札口です。当時は地上にありました。現在は改札口は地下に移され、地上の改札口跡地には花壇とともに都市宣言モニュメント「三つの願い」が設置されています。このモニュメントは、非核平和都市宣言、人権擁護都市宣言、青少年健全育成都市宣言の三つの都市宣言を記念し、1988年に設置されました。市の花であるバラを持った3人の天使が支えあう姿は、いのちの歓びや親しみ、温かさを表現しています。
庄内駅西出入口
(昔)
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(今)
次は、西出入口の写真です。
昔の写真には「庄内駅地下道完成図」の看板が掲示されており、旧改札口も残っています。
できたばかりの地下道を利用する人々の姿が記録されています。
駅前の踏切(三屋踏切道)
(昔)
↓
(今)
次は、駅前の三屋踏切道を庄内本通商店街に向かって撮影したものです。
現在も人の行き来が多い踏切ですが、昔の写真では隙間がないほど人が往来している様子が収められています。
三屋踏切道という名前は、明治時代まで庄内東町町域にあった三屋村が由来でしょうか。現在は町名として残っていませんが、国道176号線の東側、庄内東町3丁目・4丁目一帯をエリアとする三屋自治会にその名を残しています。自治会長にお伺いすると、かつては商店街を含むこの近辺を三屋と呼んでいたそうです。
庄内駅西側 庄内本通商店街
(昔)
↓
(今)
庄内本通商店街の様子を収めた写真です。アーケード化される前で様々な店舗の看板が入口から奥まで連なっています。
写真左手に写る自転車店・庄内サイクルクロダさんは、現在も同じ場所で営業しておられます。店主の黒田さんにお話を伺ってみたところ、この写真が撮影された当時はまだ子どもだったそうですが、今よりもっと多くの人が行き交い、活気がみなぎっていたと当時を振り返ってくださいました。
また、昔の写真にはパルナスの看板が見えますね。テレビコマーシャルで親しみのある人も多いのでは。製菓会社パルナスの本社は、かつて豊中市上津島にありました。
庄内駅東側 庄内東駅前線
(昔)
↓
(今)
最後に、国道176号から庄内駅に向かう庄内東駅前線を写した写真です。五十数年にわたる月日の流れの中で道はきれいに舗装され、建物の多くは新しく生まれ変わりました。線路を渡ると、庄内の人であれば一度は入ったことがあると言われた商業施設キリンドが今も同じ姿を残しています。また、銀行も複数あり、多くの人でにぎわっている姿が見られます。
昔の写真の右側には豊南市場が写っています。今は一部縮小しましたが、1955年の開設時から、地域の台所として市内外のたくさんの人に親しまれています。
ふりかえり
いかがでしたでしょうか。
周辺にお住まいの人には懐かしい風景もあったのではないでしょうか。
今回は庄内駅のおよそ60年を振り返りましたが、20年後…30年後には今の写真が懐かしい写真になっているのかもしれませんね。
次回は、どこの懐かしい風景が見られるでしょうか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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