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妖怪やお地蔵さんが主人公 豊中の民話の世界

夏といえば?かき氷、風鈴、花火などさまざまな風物詩の一つとして、怖い話や怪談もあります。四谷怪談や播州皿屋敷のお話をご存じの方もいらっしゃるでしょう。
豊中にも、妖怪が出てくるちょっと怖いお話や不思議な体験など、古くからの伝説や物語が残されています。
さあ、地域で語り継がれてきた民話の世界にご案内しましょう。

豊中の伝説と昔話

大くもの松

むかし小曽根村の渡場より北の方、高川堤に数株並んでいる松の木の中に、大くもの松といって、松の大木がありました。この大木から西の方、天竺川の堤の松の木に大くもが巣をかけ、鳥やけだものをとってくらっていました。そうしてまたここを往来する人たちに種々の妨げをしましたので、村人たちは力を合わせてこの大くもを退治しました。その後、いまに至るまでこの松を大くもの松と呼んでいるのです。

鹿島友治「豊中の伝説と昔話」より抜粋

高川、天竺川は、豊中市域を南北に流れる河川で、堤防の所どころに今も松並木が残っています。小曽根付近の両河川の間の距離はおよそ800メートル。ここに巣をかけるとは、よほど大きなクモの妖怪だったのでしょう。

ホームページ(大くもの松)
大くもの松

わしはいわぬがおまえは絶対いうな

大阪・中津から能勢・妙見山までを結ぶ旧能勢街道は、豊中市域ではおおむね今の国道176号沿いを通り、豊中駅のあたりから刀根山の丘陵に上がっていきます。その一番高い所を通るあたりは刀根山峠と呼ばれていたそうです。

刀根山峠の上の三叉路にもと地蔵堂があり、その石地蔵を村の人は首なし地蔵と呼んでいました。
さてこの峠のあたりはまことにさびしいところで、よく追いはぎが出ました。
ある時、近村のあばれ者が、この所に追いはぎに出ました。たまたま通り合わせた旅人を殺して、何がしかの路銀をうばいました。その時、誰もいないと思ったのに何やら背後で人の気配がしました。追いはぎはぎくりとして振りむくと、それは道のべのいつも立っていらっしゃる石地蔵でした。「何だ地蔵か」と思って見ているうちに、そのお地蔵さんがうっすらと眼をあかれました。男は驚きあわてて「地蔵よ、このことは誰にもいうな」と、たのみました。ところが地蔵さんがいわれるには「わしは誰にもいわぬが、おまえは絶対誰にもいうな」と。
その男はこれを聞いて恐ろしくなり、お地蔵さんのお首をもぎとって、下の池に投げ込みました。村人は地蔵さんのお首がなくなったので、さがしましたがわかりませんでした。
ところでこの男はその後いつもこの罪の苛責をうけていたと見えて、何年かたってから村のより合いの席上、酒に酔ってついにわれからこのことを皆にしゃべってしまいました。事情がわかった村人たちは、その池をさらえてお首をとりあげ、もとのおからだにのせたといいます。

鹿島友治「豊中の伝説と昔話」より抜粋
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わしは言わぬがおまえは絶対いうな

仏飯をいただいてガタロに勝った子ども

ガタロ(カッパ)は村のどの池にもすんでいて、子どもが一人で池に泳ぎにくると、池の底から出てきて相撲をとろうと誘います。ガタロは体は小さいけれど、頭の皿に水があると強く、どんな子どももかないません。子どもを相撲で負かすと、池の底に引きずり込んで生き血を吸うのだと言われていました。

ある日、ひとりの男の子が母親に何かおやつが欲しいとねだりました。しかし何もなかったので、母親は「仏さんにお供えしてあるオッパン(ご飯)をおさげしていただき」、といいました。それで子どもはその仏飯につけものをそえてたべてから一人でこっそり池へ泳ぎに行きました。
池で遊んでいると、ガタロが出てきて、すもうをとろうといいました。子どもは仕方がないので、その相手になりましたが、きょうはどうしたことかガタロはこの子どもに勝てません。
しばらくしてガタロはいいました。「おまえきょうは仏さんのご飯をたべてきたな、それで勝てないのだ」といってまた池の底にかくれてしまいました。おかげで子どもはあやうく命が助かったということです。

鹿島友治「豊中の伝説と昔話」より抜粋
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仏飯をいただいてガタロに勝った子ども

民話をより身近に感じてもらうために

これらのお話は、豊中市出身の元小学校長で郷土史家として活躍された鹿島友治さんの著書「豊中の伝説と昔話」(昭和50年(1975年)、自費出版)から選んだものです。鹿島さんが郷土関連の書物から集めたり、地域の古老に聞いたりして採集した80話のほか、付録として箕面、池田、能勢の25話も掲載されています。
カッパや幽霊が出てくる話、キツネやタヌキに化かされたという笑い話、村の名前の由来についてなど、豊中に古くから伝わってきた説話を記録した、貴重な資料です。

これを参考に、平成5年(1993年)5月から平成7年(1994年)4月にかけて、豊中市の広報誌「広報とよなか」で「都市(まち)の語りべ 子どもに語る民話」と題して24話を連載しました。
民話は人から人へ、口伝えに受け継がれていくものです。
広報誌への掲載にあたっては、鹿島さんご遺族のご承諾をいただき、堀田穣さんと柴藤愛子さんのご協力を得て「語り」やすいよう脚色を加えています。また、幅広い年齢層に親しんでもらえるよう、大沼きょう子さん、法西朋子さん、橋本憲治さんの挿絵を添えました。

当時の広報担当職員によると、「大くもの松」を掲載した時には、「大くもの絵が怖くて、夢に出てくる」と市民から電話がかかってきたこともあったのだとか。

その後、平成9年(1997年)3月に市ホームページを試行的に開設し、平成11年(1999年)4月から本格的に運用を進めるなか、関係者の皆さんのご協力により「都市の語りべ」を市ホームページに掲載することに。
堀田さん、柴藤さん、豊中おはなしの会の皆さんに実際に読み語りをしていただき、その音源とともに公開しました。

市ホームページに掲載したまちの語りべ
都市の語りべ

今回、柴藤さんに語りについて伺ったところ、「母から聞いた話が私の原点です」。子どもの頃、母親が語る話を繰り返し思い出し、想像を巡らせていたのだそうです。長年、子ども文庫やおはなし会の活動に携わり、大勢の前で語る時でも、子どもたち一人ひとりの顔を見ながら、お話を手渡していくように話すことを大切にしています。「これは子どもたちに教わったんです。ある時、『この間、僕に話してくれたお話を聞かせてあげて』と、友達を連れて参加した子がいました。自分に話してくれたと感じることで、伝わっていくのだと気づきました」と、語りの魅力を教えてくださいました。


農村から都市へ、時代の移り変わりとともに、河童やキツネの存在が語られることも少なくなりましたが、この機会に、豊中の民話に触れてみてはいかがでしょう。夏休みの自由研究や地域探求のテーマとして調べてみると、新たな発見があるかもしれません。
数々のお話を、それを伝えようとした先人の思いとともに、どうぞお楽しみください。