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能面に魅せられ作家になってしまった人

豊中に住み、働き、学び、活動する人々には、素敵にかっこよく生きている人たちがたくさんいます。豊中市公式noteで連載を開始した、豊中でいきいきと活動している人にスポットをあてたインタビューシリーズ。彼らが語る「豊中で豊かに生きる力」をヒントに、読者の皆さんご自身の「生きる力の種」を見つけてほしいと願っています。連載第5回は、豊中市で能面師として活躍する鳥畑英之さん(78歳)です。

INTERVIEW FILE_5
能面に自分の”感性を込める”鳥畑英之さん


大阪府内に9カ所ある能舞台のうち、豊中市内には府内最古の住吉神社能舞台と、豊中不動尊紫苑閣能舞台があります。この10月6日、豊中不動尊境内において「第6回島熊山薪能」が開催され、秋の夜長に多くの能楽ファンを魅了しました。その実行委員長であり、豊中で「能面師」として活躍しているのが今回の主役、鳥畑英之さん。

「能楽」「能楽師」「能舞台」という言葉は聞いたことはあるけれど、「能面師」とはあまり聞きなれないですよね。そこで、豊中市内にある鳥畑さんの工房を訪ねて、お話しをうかがってきました。この鳥畑さん、全国でも珍しい能面コンテスト「島熊山能面祭」を15年にわたって牽引してきた人でもあるのです。

技術者だった会社員時代

――社会人としてのスタートは技術者だったとうかがいました

高専を卒業して、技術者として自動車会社に就職しました。自動車整備士の国家資格も取得していたんですよ。技術者ですが営業も兼ねて仕事をしていまして、いわゆる技術営業というのでしょうか。4~5年勤務して、同期の4人で一緒に会社を辞めたんですね。今ほど転職が当たり前ではないし、むしろ一生ひとつの会社にいることが安泰!という時代です。

――どうしてそんなに早く会社を辞めたのですか?

若気の至りです(笑)。自分たちで事業を起こしたかったんですね。しかしお金がありませんから、とりあえず4人で何かして稼ごう!ということになって。まずは大阪中央市場で魚の卸しを始めました。朝は早いのですが、その後は時間がたっぷり余ってしまいます。そこで、当時八尾市にあったパン屋の配送もやることになりました。中古の4トン車をみんなで買って、朝9時に出たら、戻ってくるのは深夜0時頃でした。

それから、友達の家の土間を自分たちで改造して、スポーツ店もやりました。誰かがけしかけたというのではなく、いろんなことをしたい仲間ばかりだったので、みんなで「やろう!やろう!」と盛り上がっていましたね。中央市場に行く人、パン屋に行く人、スポーツ店を見る人と、分担してやっていました。

――楽しそうですね!

寝る時間がなかったけど(笑)。ある日、喫茶店に入ったらおしぼりが不潔だったことがあったんですね。これ、濡れたハンカチを折りたたんでナイロン袋に入れて使い捨てにできたら洗う手間も要らないし、薬剤を使えば清潔さを保つことができそうだな、と思いついた。不織布を大量に入手して「使い捨ておしぼり」の原型を作ったんです。ちょうど大阪万博の頃だったのですが、万博に出店しているテナントを片っ端から回って、「便利ですからお店で使ってみませんか」と営業しました。今では当たり前に商品化されていますが、当時は早すぎました(笑)。「使い捨て」というのがまったく受け入れられなかったんです。

仕入れた不織布は余っていますから、使い捨ての水着、下着、お菓子のパッケージなど作りましたが、使い捨てにコストをかけるという概念が理解されなかったんですね。ホテルやレストランのテーブルクロスや敷布も使い捨てを提案しました。使用用途や大きさに合わせてハサミで簡単に切ればいいだけで縫う必要もないし、汚れたら捨てればいい。しかしまったくダメでした。こんな風になんやかんややってもみんな中途半端で終わってしまったんですよ。

「時代が僕に追いついてなかった」(笑)

――ベンチャースピリットがカッコいいです!

僕の発想に時代がついてこなかったのかな(笑)。そんなことをしている間に、自動車会社勤務時代から付き合っていた女性がいたこともあって、そろそろ落ち着かないといかんかなと思って。産業用ロボットを製造する神戸の会社に就職することになりました。それが今のうちの奥さんです(笑)。

――能面師で元技術者。勝手に「頑固で無口な人」を想像していました

再就職した会社でも技術営業でしたから、とにかくいろんな取引先の人とやり取りしていました。僕は初対面の人にでも物怖じすることがないんです。お客さんもそんな僕の性格をわかってくださって、どこに行ってもかわいがってもらいました。「一緒におもしろいことやりましょうよ」と言ってくれる方もいて。特に技術者にはおもしろい人が多いんですよ。

琵琶湖で開催していた「鳥人間コンテスト」に出たこともあります。以前出場した方に会いに行って作り方を教えてもらって、一人5万円ずつ出し合って、15人でエントリーしました。最初に設計書による書類審査があるのですが、取引先に飛行機設計をしている人がいて、おかげで1回目で審査が通った。

――そんな偶然ありますか!?

僕の人生、ものすごく運がいいんだと思います。飛行機を作る段階になったら、今度はカーボンファイバーを最先端で研究している人が出てきた。その人は勉強と研究の一環でいろんな実験をしたいわけですよ。300万円くらいするような材料費と加工費を、無償で提供してくれたんです。大会前夜、台風の影響で大雨が降って、優勝候補の機体もびしょ濡れで重くなっていて条件が悪く、もしかすると……との期待が頭をよぎりました。結果は3位表彰でした。まあ上出来ですよね。

人生を変えた能面との出会い

――なかなか能面にたどり着きません(笑)。能面との出会いはいつだったのですか?

38歳のときに、取引先の技術者を通じて、能面師の第一人者といわれる堀安右衛門(ほり・やすえもん)先生と「偶然」出会う機会がありました。技術者というのはいろんな趣味を持っている人が多いんです。しかも皆さんプロ並みにその趣味を突き詰めている。その中の一人に「能面作ってみないか」と誘われたのがきっかけです。その人は設計士でありながら、堀先生のお弟子さんだったんですね。それまで能を見たことすらなかったのですが、私はこの出会いのお陰で「能面の魅力」を知ることになりました。

なにしろ能面師の第一人者です。本来なら会うこともできないのですが、そのときたまたま神戸の新開地で教室をやっていらした。「遊びにおいで」と誘われて行ってみたら、これがおもしろかったんですよ。

自宅兼工房で。あらゆるところに能面がありました

――何がおもしろかったのですか?

僕、器用なところがあるから、案外上手に面が出来上がっていったんです。技術者だったからでしょうか、はじめは「もの」として能面を作っていたんですね。だけど堀先生が言うんです。「美術品としての飾り面を作るのではなく、能楽で実際に使える面を作りなさい」って。何が違うのか理解できないまま、面の表情についてうるさく指導されるんですね。

表情というのは、教えられて出来るものではありません。自分で感覚を会得しなければいけないものなんです。「もの」としての能面づくりから、「表情」を表現できる能面づくりへ。それから、面打ちに一気にのめり込んでいって、月に2回、30年近く堀先生の教室に通うことになりました。

能面の奥深さを知る

――能面づくりの基本的な流れを教えてください

ヒノキから面の材料を切り出す「木取り」、その角材に面ごとに細かく規定されている型紙をあてて鉛筆で印をつけて、ノミを使って大まかな形状に削る「粗彫り(荒彫り)」、そして型紙をあててチェックしながら彫刻刀で丁寧に表情を作る「仕上げ」。これが大まかな表面の制作過程です。「面打ち」「面を打つ」とも言いますが、粗彫りの段階でノミを高い位置から叩きのみで「打つ」ことから、そう言われています。

表面が彫れたら、裏面の彫りを行います。裏面の形状は能楽師が面を顔にあてがったとき違和感がなく、しかも能面を着けた状態で謡いやすくする必要があります。彫り上がった面は、下塗り、彩色と進んで完成します。だいぶ端折りましたが、これが600年以上も変わらない能面の制作プロセスです。

裏から目を彫るときは大きめの丸刀(がんとう)を使います
彩色の工程。金を使うことも多い

――私たちもよく「能面のような顔」という表現をしますね

能面はただ型通りに形にできればよいというものではありません。一つの能面で、怒りや悲しみといったさまざまな表情を出すという奥深さがあります。おっしゃるように「能面のような表情」というと「無表情」の代名詞のようにイメージされることがありますが、あれは大間違い。能面は無表情ではなくて、笑ってもいけない、怒ってもいけない、泣いてもいけない、いわば中間の顔です。その中間の顔があって初めて、演者である能楽師が自分の気持ちと演技で喜怒哀楽を表現できるんですよ。「100通りの表情を持っている中間の顔」、ということになります。

また、舞台映えしなければなりませんので、遠目からもわかるように表情が出なければいけませんが、出過ぎてもだめ。一方向からではなく上下左右いろいろな角度から見て、曲や場面にあった表情が出るようにしなければならないんです。

――実に奥が深いのですね

僕も最初は彫る技術を磨くことに一生懸命でしたが、豊中市在住能楽師の山本博通先生と出会って、舞台で生きる能面を知ったことで、「能面に宿す心の表情」を表現することに一心になっていきました。「能面に自分の感性を込める」ということですがこれはいまだに難しいです。

ちなみに裏面の彫りも大切です。能楽師が使うことを考えて、厚さ、当たり、重さ、顎、目の穴(前の見え具合)、鼻の穴(足もとの見え具合)、口の開き、紐穴の位置などに注意を払う必要があります。表面がいくら良くても、裏面が悪いと舞台で使うことができないからです。

――芸術性と実用性の両方が必要なのですね

型紙通り作っても表情は出ませんからね。例えば、若女の面は、口角のほんの僅かな上がり方で魅力のある表情になる。それと下唇が重要です。ちょっと下に傾けると、唇がくっきりと浮かび上がってくる。あとは目ですね。やはり傾きによって違ってきます。ゆっくり上を向くとだんだん微笑んでいるようにも見えるし、下向きにすると泣いているように見えます。横から動かしてみると、見事な流し目ですし。

若女の面を使って角度を変えて説明してくれる鳥畑さん

――おお、すごい!表情が全然変わる!!

それから、能面は顔が非対称なのがわかりますか? 人間もほとんどの人の顔は非対称です。だからシンメトリー(正対称)な能面はありえないんです。頬の肉付きとか、ほうれい線の深さとかも非対称ですし、口角なんかは左側が少し落ちていたら、右側は僅かに上がっている。アシンメトリーだからこそ、暗い表情と明るい表情の差が出るんです。一つの面の世界の中に、「陰と陽」を整理しながら彫るということになります。表情の奥深さというのはそういうことです。

鼻もどちらかに曲がっているものです。俳優さんやモデルさんなど「こっち側から撮影してほしい」とお願いされることがありますが、まさにそれ。きれいに見える向きや角度がわかっているんですね。

進化を禁じられた「能」

――能面師によって面の表情に個性が出ますか?

能楽には大事なルールがあります。「勝手に変えてはならない」という昔からの決め事です。能は今から600年以上前に生まれた現存世界最古の古典演劇と言われています。しかも、ただ古いというだけではなく、その当時の台本・演出をそのまま伝承し、能面や装束までもが今なお実際の使用に耐えうるという特殊な演劇なんですね。多くの演劇は、時代が変わり、社会が変わり、社会通念が変われば、やがて観客に飽きられてしまい、新しい形態に変わらざるを得ないという宿命を背負っています。つまり変化することが当たり前なんですね。

しかし能は600年以上ものあいだ、舞台、台本、能面、装束、楽器、演出、楽曲、振付、台詞、発声、発音まで、昔の面影を色濃く残し、そのまま使用できるという極めてレアな演劇なんです。言ってみれば、進化を禁じられた唯一の演劇が「能」ということになります。足利義満に寵愛され、熱狂的な能マニア・豊臣秀吉が天下を収め、徳川幕府が接待・饗応・儀式の公式芸能にしたという、代々の時代のリーダーによる奇跡的な庇護によって、現在に至るまでそのままの形で伝わっているわけです。

ですから、能面もしかり。いま僕たちが作っている能面は、室町時代に観阿弥・世阿弥親子が能楽を大成したときからの面を、模倣して作ることで現在に継承しているということなんです。室町時代に活躍した能面師が作った能面の写し、要はレプリカですね。

鳥畑さんの工房では教室も開講中。実際の面を横に置いて面を打ちます

――600年も同じ面を!? 衝撃です!

そうです。能面の種類は約250種ありますが、一つひとつの顔は室町時代に出来上がっているんです。「男面」「女面」「尉面」「鬼神面」「霊面」の5つに大別され、その中でさらに細かく分類されていて名前もついています。能面の顔や表情を変えてしまったら、その物語を演じることができないということになってしまうのです。

ただ、伝統を頑なに守って継承してきた一方で、昭和の始め頃からは今の時代にあった新作も作るようにもなってきました。私が大槻文蔵先生(能楽シテ方観世流人間国宝)や野村萬斎先生(能楽狂言方和泉流)と一緒にやっている「能 狂言『鬼滅の刃』」の面などは、全国の能楽堂で上演された新作です。

58歳で能面師として独立

――趣味で始めた「面打ち」、最初から職業にしようと思っていましたか?

僕はもともとプロになろうとは思っていなくて、単なる「突き詰めた趣味」のつもりだったのですが、「日本の能面師の第一人者・堀安右衛門先生の弟子」というだけで、どこに行っても一目置かれるようになっていたんです。そのうち、「鳥畑さん、教えていただけませんか」って言ってくる人が現れるようになりました。趣味でやっているだけなのに、師匠の力ってすごいなと思いましたよ(笑)。もうそれだけで、鼻高々でしたもの。

――58歳で独立されました。強い思いがあったのですか?

いや、バブル崩壊の影響を受けて、勤めていた会社が投資に失敗。技術営業として取引先に入り込んで受注できていたのですが、だんだん外部の人間を社内に入れないようにということになり、取引先との関係もうまく構築できなくなった。売り上げも激減して結局倒産してしまったんです。58歳でした。失業保険をもらいながら迷うことなく能面師に専念しようということになりました。私の人生は、やはり運がいいのだと思います。そこからさらに楽しい人生になりましたから(笑)。

ずっと家にいて時間を持て余していますし、人とコミュニケーションを取ることが大好きでしたから、町内会とか自治会とかに引っ張りだこで、あちこち顔を出すようになっていきました。ここで能面教室を始めたのは10年くらい前からですかね。今は月に1回、2人の生徒さんが通っています。1日中、朝から晩まで地味に彫るだけですけど、楽しいんですよね。ただ座っているだけだと苦痛ですが、僕も面を打っているときは、何時間でも同じ姿勢で座っていられます。

――「面を写す」というのは具体的にどうするのですか?

いい質問ですね。能面には今で言う「スキャン技術」に相当するような技があって、それが継承されているんです。能面の種類ごとに面の凹凸に合わせるような「型紙」が何枚も残されていて、それを使って「写し」ていくんですね。昔は紙ではなく木で型を残していました。この「型紙」が600年前の本面のものなのか、あるいは限りなく本面に近いものから取ったものなのか、で違ってきます。ただし、表情の細かい部分はやはり能面師の技量次第、ということになります。

鳥畑さんが面にあてているのが、若女の型紙

――贋作にはならないのでしょうか?

焼き物とか絵画は模写・模倣してレプリカを作ると「贋作」と言われますよね。ですが、能面は贋作にはならないんです。レプリカはレプリカなんですけど、贋作じゃないんですよ。

能面には、裏面に焼印があります。本面の場合は600年前の作者のサインがあるということです。目利きは表面の彫り方だけではなく、その焼印を見て鑑定することになります。その焼印をそっくり写したら贋作になってしまいますが、表面はどんなに似せても大丈夫なんですね。絶対に瓜二つということはあり得ないですし、表面が本物と寸分違わないということも絶対にあり得ない。だから能面は表面を写しても贋作ではない、という解釈をしています。

先ほど、能面は写しだと言いましたが、誰が写したものかわからないようなしょうもない面を写してもだめなんです。600年も経っているから、「変わってはいけない」と言いつつもやはりいろんな能面が存在するわけですね。ですから室町時代の最初の面、本面というのですが、本当は現存している本面を写すのが一番いい。あるいは、その本面を写した二番目の面でもいい。堀先生に師事していたことで、本面を写すこともできましたし、堀先生が本面を写した面を写すこともできました。600年の歴史のなかで限りなくオリジナルに近いもので学ぶことができた、ということになりますね。ワクワクしませんか?

――堀先生から学んだことで、一番影響を受けたことは何ですか?

堀先生から学んだのは、「目の前の能面だけを見るな」ということです。能面を見ることも大事だけれど、それ以上に「能の舞台を見なさい」と言われました。舞台で能面がどういう風に扱われているか、そこからスタートしないと能面は作れませんよと。能面の表情が舞台でどういう変化をするか、客席から舞台まで距離がある中で面がどう傾いたら能楽師はどんな仕草の表情を出そうとしているのか、それを自分で見てわかりなさいということでした。そういう根本的なところを堀先生に教えていただきました。

10月6日の島熊山薪能の舞台は豊中不動尊の境内。豊中ではこんなに身近に能舞台が鑑賞できる

能面技術の伝承と向上を!

――島熊山能面祭の図録を拝見させていただいて、コメントの辛辣さに驚きました

能面を打つ人が、自分が作った能面に対して、演者である能面師から講評を受けたり、助言や意見を聞く機会はほとんどありません。そこで、2007年に「お能ってなあ~に?『能面の巻』」という、能面師と能楽師の交流会を始めました。それが15年間続いた能面コンクール「島熊山能面祭」となり、毎年全国から新作能面を応募していただく能面審査会へと発展していったのです。「豊中市文化芸術振興助成金」の交付を受けることで毎年開催することができ、能面界に大きな影響を与えてきたと思います。集大成として最後の開催となった2020年の第15回の審査員は、能楽師シテ方 梅若桜雪(梅若実玄祥)先生、大槻文蔵先生、山本博通先生、赤松禎友先生、山崎正道先生、武富康之先生、大槻裕一先生、狂言方 小笠原由祠先生の8名です。

――審査員は1人じゃないんですか。何て豪華な!

応募作品には番号だけをつけて、個人名を伏せていますから、誰が作った作品なのか、師匠は誰なのかは一切わからないようにしています。8名の審査員の先生方が、「舞台で使いたい面」かどうか自分の目で審査するわけです。そして入賞した作品には丁寧にコメントをつけて評価します。このコメントがいいんですよ。大賞であっても辛口のコメントがつけられます。「目に勢いが感じられない」とか「口がだらしない」とか。このコメントが応募者(能面師)にとっては非常に有益だったと評価されています。

審査員の先生方は能面師の僕らとは見ているところが明らかに違うんですよ。だから実際に上位入賞する能面は、彫り方ではなくて、舞台でどう見えるかが勝負ということがわかるんですよね。舞台での見え方について先生方が本気でコメントしてくれるというのは、能面師にとってはたまらないわけです。カルチャーセンターの能面教室では、そういうことは教えてくれません。島熊山能面祭は全国規模の能面コンクールとしては全国トップクラスでしたし、ものすごく人気がありました。

実行委員会のメンバーとして僕も参加していましたが、苦労が多かった分、勉強になったこともたくさんありました。何より楽しかったんです。先生方のコメントを言語化して文字に残す作業をやらせていただいたのですが、その経験が僕自身の面打ちの幅を広げてくれたからです。

舞台で使われる能面を目指して

――能楽師の方は、使用する能面や能面師を決めているんですか?

人間国宝の梅若桜雪(梅若実玄祥)先生(観世流能楽師シテ方)は、能楽師はどんな面でも使えるようにならないといけないとおっしゃっています。ただ、600年前の本面や古面を使って舞うと、やはり違うそうです。大きな舞台では本面や古面が使われることが多いですね。ちなみに、江戸時代以降の面は新面と言います。

――鳥畑さんの能面が舞台で使われるようになったのはいつからですか?

もちろん会社を辞めて、独立してからです。能面祭等で山本先生とお付き合いするうちに、山本先生が舞われる舞台に使っていただけるようになりました。その関係から他の能楽師の方からもお声がけいただけるようになっていったんです。うれしかったですね。

――それまでは、ひたすら作るだけだったのですか?

はい。もう160面くらいになっていましたかね。箱に入れてしまっています。今は200種類を超えたくらいになりましたでしょうか。1つの面を作るのに、だいたい彫りで1カ月、彩色で1カ月かかります。

――鳥畑さんが能面を完成させるときに、最も集中するのはどこですか?

能面というのは「品」が大事なんです。素晴らしい能面は、種類に関わらず「品」がある。その「品」がもっとも出るのが「目」なんです。また、能面というのは目に一番表情が出る。ところがその目が、なかなか彫れないんですよ。難しいんです。そして口角。若い面から年寄りの面まで、口角が年齢の表情を出すんですね。若い面は口角が上がってくるけど、年齢を重ねると口角が垂れてきて、ほうれい線が深くなっていく。あとは小鼻。言い出したらきりがないね(笑)。2007年から2021年まで15年続けた「島熊山能面祭」は毎年図録を作成していましたが、写真で見ても違いが明確です。入選作品には審査員となった能楽師が個別に講評をしていますが、最もコメントが多いのは「目」「口元」でした。

口角の微妙な上がり下がりで年齢の表情が出る

――能面を作る上で、一番心掛けていることを教えてください

技術者から始まった僕の人生は、つまり「ものづくり」の人生ということになりますけど、いつも大切にしていることは「慌てず、丁寧に。そして手を抜かない」ですね。そして、作る前に必ず「どういう人が、どんな使い方をするのか」を見ること。単なる「形」ではなくてね、「道具として扱える」ということが大事だと思っています。いい道具というのは、どこを見ても必ず製作者の「手が入っている」のがわかる。「手を抜かない」ということが、「能面に自分の感性を込める」に繋がっていると思いながら、心を尽くして面を打っています。

「能をメジャーにしたいんです」

能面師・能面作家 鳥畑英之さん

【取材後記】
室町時代、観阿弥・世阿弥親子によって大成された能楽は、600年以上の長きにわたり、その芸の精髄を脈々と受け継いできました。能面師の鳥畑さんとの対話を通じて、変化を当然視していた自身の価値観を省みる機会を得ました。現代社会は、先行き不透明で激動する時代と形容されます。私たちは、常に変化を求められ、また、自らも新しいものを追い求めることが当然のようになっていますが、本当に大切なものは、その流れの中に見失われてはいないでしょうか。600年以上も昔、現代と変わらぬ能面を用い、舞台を彩った名優たちの雄姿に、観客は惜しみない賞賛を贈っていたことでしょう。「推しメン!」と声援を送る熱狂は、当時も変わらなかったのかもしれません。現代人の我々にとっても、その洗練された美意識と高度な芸能文化には、驚嘆するほかありません。演じる者、演出する者、そしてそれを鑑賞する者。能楽は、その全てにおいて、様式美と品格を兼ね備えています。現代において、これほどまでに高い完成度を誇る芸能が、果たして他にあるものでしょうか。

次回のインタビューもどうぞお楽しみに。皆さんの日常にささやかな刺激とインスピレーションをお届けしていきますね。なお、このインタビュー記事は豊中市の情報発信を共に推進する外部人材として、たねとしおが担当しています。
 
【取材・文】たねとしお/1966年岩手県生まれ。明治大学文学部を卒業後、株式会社リクルートに入社。関西支社勤務時代には曽根に在住。リクルート卒業後は「男の隠れ家」出版局長を経て、現在は株式会社案の代表取締役社長。東京と京都を拠点に全国各地を取材で駆け回る。2024年3月立命館大学大学院経営管理研究科(MBA)を修了。学びのエバンジェリストとして、現在も京都大学で学びを継続しながら社会人のリスキリングを広める活動にも勤しんでいる。歌とワインとクルマが大好き。